猫も杓子も。

わかりあえない、なんて知ってるわ。

童貞聖マリアさま、

 

 

人皆罪を犯したるが故に死総ての上に及べるなり。

 

ロマ書五の十二

 

 

 というエピグラフから始まる、

 

深淵/福永武彦(日本文学全集17)を読んだ。

 

この小説は、放火の罪を犯した男と、カトリック信者の女による交互の独白で構成されている。

 

まずは女の独白から始まる。

それによれば、女は15年もの間診療所で寝ていたこと、ある男のせいで天主様の第六誡を犯したこと、それに最早もう彼についていくことしかできない、ということがわかる。

 

次に男の独白。

一人称は「己」と書いて「おれ」。

この男は常に「飢え」に衝き動かされてきたことがわかる。

 

女は病気であったらしい。しかし恢復すると愛生園で働き始める。事務として働いているそんなある日に男と出会ってしまう。

 

男は相変わらず、飢えだけが己の中にあり、魂なんてものは無いと主張する。

 

 

 

というように、いつまでも男と女の交互の独白が続いていく。

 

男はいつも飢えに衝き動かされている。本能的というべきか。

 

最近読んだ『鳳仙花』のフサも自由奔放というか本能的だと感じていた。しかし、この男の「本能的」とは根本的に異なっていると思う。荒々しさが前面に出ている。言うならば、獣である。

 

 

この小説の主題は「罪」と「愛」だと思う。

 

女はもう男なしでは生きていけないのだと思う。どこまでもついていく気がする。

そのため、信仰と男への愛に挟まれて苦悩を重ねていく。女は常にマリア様の前に跪く。

 

しかし男の方は違う。男にとって飢えからの命令がすべて。獣である。

と思っていた。しかし、

 

己にはお前が分からない。己がお前から逃げ出せないのは、お前というものが己には分からないからだ。お前は己の飢だ。

 

と男は言う。結局男は女を愛していたのか。

 

 

 

小説の最後は、とある新聞の記事で終わる。

 

女は白骨死体として発見され、男の行方はつかめない。

 

男は飢えに衝き動かされてひたすら逃げる。