速く読めばいいわけじゃない。
横光利一の作品に『機械』という小説がある。
1930(昭和5)年に『改造』に発表された、原稿用紙にしてたったの50枚ほどの小説である。
原稿用紙50枚なら、普通なら1時間もあれば読み終わる。
私も1時間ほどで読み終わった。
しかし、この原稿用紙にしてたった50枚の小説、『機械』を、11年と数か月かけて読んだ人がいる。
宮沢章夫である。
プロフィールを見ると
1956年、静岡県生まれ。劇作家・演出家・作家。
となっている。
私はいままでにこの人の劇を観たことがないし、小説だかの作品も読んだことがない。
しかし、NHKで以前放送していた『ニッポン戦後サブカルチャー史』をながら観していたので、名前は知っていた。
『時間のかかる読書』は、宮沢氏が11年かけて読んだ『機械』についてのある雑誌の連載をまとめたものである。
最初3回分の連載では、彼はまったく『機械』について触れていない。
コンピューターの話だったり、『リバーズ・エッジ』(少女漫画?)は傑作だと言ったり、サッカーの人気の話だったりと、全然進まない。
4回目にしてやっと、『機械』のあらましに触れたかとおもいきや、すぐ脱線。
5回目のタイトルが「ようやく読む」である。
わざとやってるんではないかというほどである。
読み始めたと思っても、すぐ止まる。
初めの間は私は私の主人が狂人ではないのかとときどき思った。
と始まる小説なのだが、彼は、この中の「狂人」に引っ掛かり、いろいろな「狂人象」を考え始める。
途中、小説内で「私」が、「軽部」にカルシュームの粉を投げつけられる場面があるのだが、宮沢氏はなんとこの「カルシューム」のことで連載6回分も費やしている。
恐るべし。
こんな風にして、何度も何度も彼は立ち止り、考える。
それは、昨今の「速読ブーム」へのアンチテーゼかもしれない。
確かに、この連載当時に「速読ブーム」があったとは限らないが、ある意味では「翻訳」をして本を読め、ということでもあると思う。
ある文章を読んで、じっくり考えて、頭に入れて、また次の一文を読む。
疑問が出てくれば、とことん考え抜く。
そうやって、一つの小説を、徹底して読む。
ま、それをやるのはなかなか難しいかもしれないけどね。