信長登場(5/207)
堀新2014「織田政権論」大津透 他編『岩波講座日本歴史 第10巻 近世1』岩波書店
はじめに
背景
信長の評価の難しさ。
→中世と近世の移行期の権力であり、両側面を持つ。
公武関係史において、基礎的な事実関係が定まっていない。
公武対立史観
徳川史観
⇒家康や征夷大将軍を神聖化・絶対化。
課題
「政治史を中心に、具体的には室町幕府との関係、大名編成、宗教勢力との関係、天皇・朝廷との関係を検証し、事実確認を行いながら織田政権の政治史的位置づけ」をおこなう。
一 武家の権力編成
1 「天下再興」と室町幕府の滅亡
織田政権の起点=1568年9月、足利義昭を奉じて入京。
義昭「「御当家」を再興する」-「天下御再興」
このころは、信長・義昭の連合政権。
→義昭の「御下知」を奉じた幕府奉行人の連署状と信長朱印状。
→信長の軍事力が背景。
↓
1570年正月23日付け、五ヵ条条書。
→「天下之儀」を義昭から委任され、自らの分別により成敗できる。
「天下」委任から、「天下之為」、そして「信長之為」という正当化論理。
信長は形式的には室町幕府の枠組みから外れておらず、「天下静謐」をおこなおうとした。幕府の役職にはつかず、義昭からの委任が、信長支配の正当性であった。そのために幕府を守り、京都を支配下に置くことが必要だった。
しかし、義昭は謀反を起こす。いったんは結ばれた講和は破綻し、室町幕府は滅亡。
2 「天下統一」へ
織田政権の直接支配領域=畿内を中心に東海・北陸・中国地方西部。その他表面的には関東・東北も。
家臣は、信長権力から独立したものとはみなせない。家臣の領域支配=信長の上級支配が前提。
二 宗教勢力との闘い
1 本願寺・一向一揆との闘い
元亀元年(1570)9月12日、本願寺が蜂起。
朝倉・朝井も軍事行動を起こす。
義昭は、関白二条晴良を動かし、朝倉・朝井と講和を結ぶ。
比叡山とは、これに綸旨を加えて、ようやく成立。
信長は、天正2年(1574)に伊勢長島一向一揆を、翌年には越前一向一揆を鎮圧。
⇒本願寺は危機感。講和を模索。
「侍モノヽフハ百姓ヲバサゲシムル」(近江国堅田の本福寺住持明誓)
⇒一向一揆農民と武士の激しい敵対関係
⇒この対決から幕藩国家の成立
↓
当初、本願寺との戦いを正当化する理由を持っていなかった信長。
天正2年の長島一向一揆鎮圧にあたって、「天下のため」を主張。
その後、本願寺との戦いも「天下のため」
本願寺は「法流(宗派)が退転しないこと」を名目に戦う。
→開戦とともに講和の名目に。
勅命講和の性質
織田政権の脆弱性
⇒勅命講和は方便に過ぎない。
天皇の軍事指揮権保持
⇒開戦を命令した例はない→軍事指揮権は持っていたとは考えられない。
2 比叡山焼き討ちと安土宗論
比叡山焼き討ち
→信長家臣団が比叡山領の荘園を押領。
比叡山は所領返還を条件に講和。信長は味方or静観を申し入れし、背けば焼き討ちと忠告。
しかし、比叡山は2度も黙殺。
信長は焼き討ちを決行。
信長にとっては、比叡山は宗教勢力としてではなく、一在地勢力として焼き討ちした。
安土宗論
発端:安土城下において、日蓮宗徒の武部紹智・大脇伝介が浄土宗の霊誉(れいよ)に宗論を仕掛けた。信長は和平を仲介するも日蓮宗が拒否。城下において宗論がおこなわれた。
日蓮宗を陥れるために工作をしたと言われることが多いが……。
他宗との紛争を回避し、宗教的秩序を維持しようとした。
つまり、信長により宗派存続が認められたこととなり、これが安土宗論の歴史的意義。
⇒宗教勢力に対する政治権力の優越の確立。
3 絹衣相論
(絹衣:素絹の僧衣で、略服の一種)
本来は、天台宗僧侶のみに着用が認められていた絹衣だが、天文年間に常陸国の真言宗僧侶が不況を有利にするために着用。天台宗側が訴え出た。
天正2年、従一位・前権大納言柳原資定が、真言宗は絹衣着用は認められるのに天台宗側が制した、とする謀書綸旨を発給。
朝廷の腐敗を見た信長は、謀書綸旨を防止する奉行五人を設置→「五人の伝奏(天皇に一切諸事を直奏)」。
柳原は、五人の伝奏により勅免。
また、本寺が末寺を統制することという綸旨も発給。
信長政権下では、地方寺院を抑止する力はなかった。
⇒①中央翻字と地方末寺の関係強化、②政治腐敗が進む朝廷の再建
三 天皇・朝廷との関係
1 正親町天皇の譲位問題
奥野高廣
将軍任官を望む信長と平姓将軍の出現を拒む正親町天皇の対立。
信長は譲位を強要。蘭奢待の切り取り、京都馬揃などで圧力をかける。
天正2年(1574)に参議叙任。最終的に、天皇は三職推任に追い込まれた。
↓
しかし、実際には参議叙任は天正2年ではないことが明らかになっており、信長が将軍任官を望んだという直接的根拠もない。
譲位を強く望む天皇・朝廷とそれに消極的な信長という構図。
ただし、「深刻な対立関係」や「天皇への異常な示威」ではない。
朝廷は、財政が困窮していて武家に依存せざるを得ない状況。
信長は、中央政権としての体裁を整えるため、「朝廷再興」を掲げ保護。
↓
公武結合政権
2 興福寺務相論と「公家一統」
天正4年に寺務交代が期となる。兼深は別当職補任を朝廷へ申し出る。
前別当大乗院尋円は兼深が資格を満たしていないと朝廷に訴える。
学侶たちは尋円再任を要求。
これに関して、信長は尋円を補任。
四人衆(*勧修寺晴右・中山孝親・甘露寺経元・庭田重保)は再考を求める。
信長は改めて、尋円再任を命じる。
「四人衆は朝廷の腐敗を改めるために設置されたが、それは有効に機能していないことが、この興福寺寺務相論で明らかになった」
信長は四人衆を非難。
「四人衆に禁中の諸事を談合し、そのうえで信長の了解を必要とすることを定めた」
四人衆の処罰期間は6月24日から8月6日の免許まで。
しかも、完全に政治的に遮断されていたわけではなかった。
信長は寺務相論以降も四人衆を中心に朝廷運営をおこなった(*ただし、実際には結論を出す前に村井貞勝と相談して案件を処理していたと思われる)。
3 信長の官位と三職推任
信長の官職在任期間
信長は任官に消極的で、積極的であったのが朝廷。
辞官以降、復官の意志があったとは認めがたい。
官職の有無にかかわらず、官職体系に包括されていないため、信長の国家構想と官職は分けて議論すべき。
おわりに
「天下布武」の正当化論理
⇒「天下再興」から「天下之為」
「公武が相互補完的に王権を構成する公武結合王権」
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